なにがたのしいか

お茶というと、立ち居振舞いがどうのという話になるんですが、お茶会の真の楽しみはそうではないようです。お茶会では「会記」という、その日使った道具のお品書きみたいなものを主人が用意します。掛け軸、茶碗、釜からお花や和菓子にいたるまで、何を使ったかを墨で書いたものなんですが、これがかなり重要なようです。
要は主人がどんなものをどういう意図でここで使ったのか。茶碗ひとつとっても、華やかだとかシックだとかいう見た目の要素だけでなく、作者がどんな人なのかという出自や、ひいては同作者の茶碗がどのようなお茶会で使われたのかという歴史的な要素まで入ってきて、そりゃもうたくさんの意味がもたされているわけです。掛け軸なんかは禅語や漢詩が書かれていたりしてその文字の意味を取ることさえ困難なのに(というか読めないし)さらにそれを高僧が書いた書を茶人が写したもの、みたいになってくるので、もう何がなにやらです。さらにさらにこの道具の時にこの軸を使うって事はどういうことか、という組み合わせの話になってくる。
主人はそうやって、「お茶会の空間」を作り、客はその「空間」を読み取りにくる。頭も使うし、当然美意識も必要だ。でも共有された知識がないと、それはまったく成り立たないんですよね。